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桑 (駆逐艦) : ミニ英和和英辞書
桑 (駆逐艦)[くわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くわ]
 【名詞】 1. mulberry (tree) 
駆逐 : [くちく]
  1. (n,vs) extermination 2. expulsion 3. destruction 
駆逐艦 : [くちくかん]
 【名詞】 1. destroyer 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

桑 (駆逐艦) ( リダイレクト:桑 (松型駆逐艦) ) : ウィキペディア日本語版
桑 (松型駆逐艦)[くわ]


(くわ)は、大日本帝国海軍駆逐艦松型(丁型)の5番艦である。日本海軍の艦名としては2代目。藤永田造船所で建造され、1944年(昭和19年)7月25日竣工。12月3日、フィリピンレイテ島オルモック湾で米駆逐艦と交戦し沈没した。
==戦歴==
就役後、桑は訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)第四十三駆逐隊に編入される〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.53〕。瀬戸内海に回航され、8月3日から8月30日までは輸送任務に従事中の軽巡洋艦長良に代わって第十一水雷戦隊の旗艦を務めた〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.4,8,11,33〕。8月30日に旗艦の任務を軽巡洋艦多摩に移してからは〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.33〕訓練を再興する。10月4日からは空母海鷹とともに対潜掃討任務に従事する予定だったが〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.9〕、整備の遅れにより任務は取り止められた〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.13〕。
10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のに上陸し、日本軍捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、機動部隊は豊後水道を出撃し、10月22日に空母千代田から重油の洋上補給を行うも予定の100トンに対して75トンしか補給できなかった〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.19,20〕。機動部隊は10月23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成し、これにより桑は空母瑞鳳の左後方に位置することとなった〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.24 、木俣, 534ページ〕。10月25日朝、機動部隊は沖でついに第38任務部隊の艦載機による空襲を受け(エンガノ岬沖海戦)、数度にわたる空襲を受け瑞鶴以下すべての空母を失い小沢中将の命を受けて瑞鶴と瑞鳳の生存者救助任務を行った〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.46〕。17時20分までの救助作業の結果、瑞鳳艦長の杉浦矩郎大佐以下847名を救助した。桑は若月初月とともに更に救助作業を行うも、ローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊の攻撃を受け避退〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036700, pp.4〕、10月26日に中城湾に帰投した。
桑は11月2日付で第三十一戦隊江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入り〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.47〕、次いで南方に進出する戦艦伊勢日向を護衛して11月9日に門司を出撃する〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53〕。11月15日にとともに第五十二駆逐隊を編成〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.56〕。伊勢、日向とは南沙諸島長島で別れ〔野村, pp.10〕、第三十一戦隊旗艦の軽巡五十鈴を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.58 、野村, pp.10〕。11月23日付で第五十二駆逐隊は第三十一戦隊に編入され、が加わって6隻体制となった〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.59〕。この頃、レイテ島オルモック湾への輸送作戦である多号作戦が依然続行中であり、桑は第七次多号作戦に参加することになった。
11月30日午前〔宇那木, pp.14〕、桑は第七次多号作戦で駆逐艦第9号輸送艦第140号輸送艦、第159号輸送艦と第三梯団を構成してマニラを出撃した。竹はこれまでに第三次、第五次の多号作戦に参加していた。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた〔ニミッツ、ポッター, 401ページ〕。第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦としてアレン・M・サムナー (''USS Allen M. Sumner, DD-692'') 、モール (''USS Moale, DD-693'') そしてクーパー (''USS Cooper, DD-695'') がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)〔木俣, 565ページ〕は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した〔木俣, 565、566ページ、ニミッツ、ポッター, 401ページ、渡辺, 319ページ〕。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。
12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、南方の哨戒を開始した〔宇那木, pp.16〕。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった〔木俣, 566ページ〕。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を竹に知らせた〔宇那木, pp.17〕。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき〔木俣, 567ページ〕、一方的に叩きのめされて沈没していった。その後、竹の雷撃によりクーパーを撃沈し、浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった。第三梯団の指揮官を兼ねていた駆逐艦長山下正倫中佐以下多くの乗員が戦死し、海上に放り出された生存者は竹に対して声をかけたり〔宇那木, pp.21 、木俣, 567ページ〕、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという〔木俣, 568ページ〕。竹の駆逐艦長・宇那木勁少佐は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼したが〔宇那木, pp.21〕、生存者のその後の状況は定かではない。1945年(昭和20年)2月10日に除籍。
2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認した。これにより、ほぼ桑と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桑 (松型駆逐艦)」の詳細全文を読む




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